2023年 あまりハマらなかった映画 3つ

  1. ゴジラ -1.0」

    映画館が人であふれかえるクリスマスに1人で観に行った。映画中や終了後の他の観客の様子やネット上での意見などを見るに、自分がただこの映画に入り込めていないだけで、純粋に面白いのかもしれないが、如何せん作中の粗や気に入らない部分がノイズとなり面白いと感じられなかった。


    気になった部分について具体的に述べていこう。
    まず映画冒頭の大戸島でのゴジラ襲来シーンでの戦闘機の機銃は主人公敷島にしか撃てない、というシーンだが、戦闘機を動かすのではなく、単に機銃掃射する目的であれば別に誰だっていいはずだし、敷島のほかにいたメンツのほとんどが整備員であることから機銃の掃射の仕方くらい知っていてもおかしくない。このように主人公を主人公たらしめるために物語を歪めている部分が初っ端から気になり、以降そういった部分に敏感になってしまったように思う。

    次に、佐々木蔵之介の演技があまりにも…すぎてちょっと受け付けられなかった。佐々木蔵之介自体が嫌いなわけではないのだが、テレビドラマ的すぎて映画として完結する物語の中には濃すぎる味付けで胃が凭れてしまった。

    オリジナルへのリスペクトなのか単なる目配せなのかわからないが、核の脅威の権化としてのゴジラを描いていた。しかし、それがあまりにも表面的すぎた。中盤の本土初上陸シーンでのゴジラ熱線からのきのこ雲、そして黒い雨の描写が出た時は「これは…期待できるな…」という気持ちでいっぱいになったのだが、それ以降一切放射能汚染などについて触れられておらず、登場人物全員相当な被曝をしているはずなのだが、そういった影響というのが全く描かれていない。なんならものすごくピンピンしており、そこにまた苛立ちを覚えた。

    何より、現在にも通じるような政治批判のようなものや、戦時中の日本の在り方などに対する批判を行いたいような部分が見受けられはするものの、「政府ってのは…いっつも隠蔽ばっかじゃねぇか」みたいなセリフに留まる程度で政府がどのような実態なのかなどそういった部分、何なら政治家が一切といってもいいほど出てこない。これで批判しているつもりなのかな?という疑問がずっと頭から離れなかった。(別にそういった意図はないのかもしれない、と思うとそれはそれでがっかりだし、それならなぜ戦後という時代を選んでそういったセリフを入れたのかさっぱりわからない。)
    また、最終的なゴジラ討伐作戦として「海神作戦」なるものを立案し決行することになるのだが、この作戦自体のガバガバさには目をつむるとしても、決行時に途中で作戦がゴジラの機転により中断されるが、ちょっと胸アツ(?)な展開から中断した作戦を再開するシーンがあった。しかし、立案段階で「急激な圧力の変化」こそがこの作戦のキモであると明言しており、再開後にゆっくりと浮上させてたらそもそもの作戦の意味がないような気がして仕方がなかった。
    更に、このような民間の、しかも元軍人たちのガバガバな計画に対して、政府も暗黙の了解をし、またGHQも一切関与しない姿勢はちょっと無理があるように思えた。戦後の動乱期にこんなガバガバ計画であれだけの戦力を調達し放題であるなら、クーデター起こし放題だし、またゴジラが東京で一度大暴れした際、GHQの本部や政府の機関などダメージを受けているはずで、隠蔽云々というそんなしょうもないことで片付けられるレベルではない気がする。
    こういったことに対して、「純粋に楽しめ!!!」といった意見を言われかねないが、戦後というデリケートな時期をわざわざ選んで題材にしている時点でこういった問題に対して真摯に向き合うべきだと思うし、それをないがしろにするのはあまりにも不誠実極まりないように感じてしまう。

    細かい話をさらにすると、山田裕貴演じる水島に対して「戦争を知らねぇってのは幸せなことなんだぜ…」みたいなことを言っていた佐々木蔵之介がラストの胸アツ(?)シーンで水島が来た際に「お前やるじゃん!」みたいなことを言っていたのがすごく気になったり、海神作戦決行日に敷島が娘と金と「この子をお願いします」だけ書かれたような置手紙だけを置いていったことに対して、安藤サクラ演じる澄子が怒りもしなかったりする点(海神作戦が極秘だったことからあまり手紙には何も書けなかったことはわかるにはわかるが、それだけの内容じゃ澄子はコブ付き独り身で育てられない/身動きのとれなさの限界を感じて娘を捨てたんじゃないか、と考えるのが自然だから)がすごく気になったり…とキリがない。

    ラストのありえないような”再会”を見て正直乾いた笑いしか出なかったが、帰り道にずっと考えていたらすべてに納得がいく一つの説にたどり着いたのであった。それは「敷島、最初の大戸島で死んでいた説」である。敷島は最初の大戸島で米軍の攻撃に遭い命を落としてしまったが、今際に見た米軍の脅威というものが「ゴジラ」という幻想を生み出した。自分自身が何の役にも立てず死んでしまい、また自分のせいで仲間が死んでしまったことなどの後悔の念から成仏できずにいた敷島の霊が、霊的な世界もしくは空想の中でゴジラ-1.0の世界を経験することで無事成仏した。これでいいんじゃないか?

    勿論、CGの凄さなどいいな、と思う点はありはしたのだが、受け付けない部分が受け付けなさ過ぎて苦しくなってしまった。人間は過度のストレスに曝されると変な笑いが出てしまうのだな、と実感した。
    「敷さぁぁぁん!!敷さんは悪くないぃぃぃぃ!!!!敷さんは生きていいぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」


  2. 「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」
    ウォンカとチョコレート工場のはじまり : 作品情報 - 映画.com
    これはまず、広告の不誠実さが大きい。「チャーリーとチョコレート工場」の前日譚、というように銘打って各所で広告がなされていたが、大嘘である。
    今作は1971年に公開された「夢のチョコレート工場」の前日譚なのだ。
    チャーリーとチョコレート工場と原作は同じであり、話も大体同じではあるのだが、様々な部分が異なっている。例えば、ウンパルンパの造形であったり、ウォンカの家庭事情であったりが挙げられる。特に後者はティム・バートン版のオリジナルの要素があまりにも強く、「チャーリーとチョコレート工場」の前日譚、と銘打つと大きな齟齬が生じてしまう。本当に、良くない。
    背景としては、「夢のチョコレート工場」が日本では当時公開されず、また知名度が低いことなどが挙げられるが、にしてもちょっとなぁ…


    内容に関してもまたちょっと違和感がずっと拭えず、言語化できないもやもやがあり3日くらい頭を悩ませていた。3日目にして漸くある結論にたどり着いた。それは「チョコなの?薬物なの?のダブルスタンダード」である。
    原作「チョコレート工場の秘密」、ひいてはロアルド・ダールの小説の大半において言えることなのだが、結構ブラックなジョークが盛り込まれており、今作もそれに準じたのだろうと思われるのだが、表面だけをなぞりすぎていて話に整合性が取れていない部分があるように思えた。
    敵集団「チョコレートカルテル」は街のチョコレート市場を独占していたが、その際にチョコレートを賄賂の代わりとして用いていた。その際、チョコレートがチョコレート以上の価値を持ちすぎている、さらに言うと、薬物的に描かれている点が非常に気になった。一貫してチョコレートを薬物のメタファーとして描いているなら納得は行くのだが、ことあるごとに「これはみんなも知っているチョコレートだよ」というような感じを出してくる。チョコレート自体は人気のお菓子であり自分自身も好きではあるが、チョコレートにそれだけの価値があるのか、と考えるとそこまでの価値を見いだせない。
    原作やその映画化である「夢の~」や「チャーリーと~」では、子供はチョコレートとウォンカブランドの魅力に、大人はウォンカの工場に行ける、という希少性など熱狂する理由がそれぞれ理解できた。なのに今作はそういったものではなく、チョコレートを変にエンパワーしておりそれが非常にノイズとなった。

    また、チョコレートを薬物のメタファーとして描いているのであれば、ウォンカの行っている行為というのはただのシマ荒らしであり、カルテルから目を付けられるのは至極当然のことである。また、違法なストリートでの売買によってメイクマネーして成りあがる、いわばヒップホップ的、ストリート的であるにもかかわらず、それがあたかも大正義であるかのようにラストで大団円を迎えるのはすごく違和感を覚えてならない。

    薬物のメタファーとして描いているにしては甘すぎるし、ただのチョコレートにすぎないとするならあまりにも無理がありすぎる。あまりこういうことを考えながら観るものではないのかもしれないが、ウォンカ虐みたいな応酬を重ねラストの大団円のカタルシスを生む流れはおおむね理解しつつも、終盤までのウォンカ虐の叩きのめしっぷりの悲しさがあまりにも強く、「たかが街を仕切っている程度のチョコ屋集団」にしては、あまりにも卑劣で既得権益の保持に貪欲すぎ、異常であると言わざるを得ない。

    また、今作のエンディングで描かれたメッセージが後日譚であるチョコレート工場の秘密で描かれるウォンカ像が持ち合わせていない考えであり、前日譚として描いているストーリーの中でウォンカにこの学びを与えていいのであろうか。非常に疑問が残る。

  3. 「きっと、それは愛じゃない」
    きっと、それは愛じゃない | あらすじ・内容・スタッフ・キャスト・作品・上映情報 - 映画ナタリー
    Filmarksより

    「ドキュメンタリーを撮る」ということがもつ問題点やその意義についてどう扱っているのか、ということに対して、あらすじや予告を見た段階から非常に気になっていました。この点に関して、ドキュメンタリーを撮る最初のシーンにおいてカメラを向けられた側が演技をしてしまう、普段通りのふるまいではなくなる、という描写があり、その点はすごくいいと思いましたが、その次の瞬間にはまるでカメラが介在しないかのように振る舞えている部分にすごく違和感を覚えざるを得ませんでした。(映画の尺の都合上仕方のない部分ではあると思いますが)次に、主人公であるゾーイが自分の持っている意見とは真逆の価値観についてのドキュメンタリーを撮るわけですが、本人はその価値観を十分に尊重したつもりでいながらも私情を大いに挟み、挙句の果てには自説を強化しうる構造になっていながらもお涙頂戴のあたかも良いような終わり方になっており、非常に悪質な意見の誘導をしているように思えました。(その結果としてカズや家族、一部の観客には非常に冷ややかな目線で見られることになるのですが)。これは劇中劇としても褒められたものではない、と思いました。ドキュメンタリーを作る側としてその姿勢はいかがなものかと……

    また、このような劇中劇のもつ悪質さ、具体的に言うならば「見合い結婚は古く、もう時代にそぐわない価値観・風習である。一方で恋愛結婚というものは問題を抱えつつも無条件に素晴らしいものだ。」とする言説をこの映画全体としても唱えているように思えてしまう点がよくないと感じました。
    主人公ゾーイは、隠しきれない自分の気持ちをそれとなくずっとアピールし続けていたらいつの間にか周囲が自分の都合のいいようになっていき、その結果望む”幸せ”を手に入れます。彼女はこの映画を通して全く成長してないですよね。
    ゾーイから感じられる不快さが作品を通して納得へと変わり、昇華されカタルシスを生むようになっていないために、映画が終わるまでずっとその不快さが持続して非常に苦しく感じました。

    カズの妹ジャミラ周りの話ですが、保守的な価値観から脱却し自身の主義を通すために苦しみながらも犠牲を払ったジャミラを描くこと自体は、保守的な価値観にとらわれているカズやマイム―ナとの対比になり、非常に良いと思ったのですが、マイム―ナの顛末といい、カズの最後の選択といい、この対比を大いに崩すような結果になっている上に、なぜかジャミラよりも家族に頑張って従おうとしたカズの方が”オトナ”であるかのような描き方をしており、非常に不快でした。ジャミラの苦しみや決断はそれ相応の覚悟があってこそな一方で、風習に流され(流されること自体は悪ではないですが)結婚までしたのにも関わらず、それを不意にしてまで自分の欲求に従うカズやマイム―ナの覚悟のなさ、人間としての未熟さがより際立ちました。

    恋愛・結婚、というものについても、「しなきゃいけないこと?しなくても幸せに生きていける」ということにも触れるのかと思いきや、結婚や恋愛といったものをしなければいけないこと、いずれは誰しもするべきものであるかのような印象を受けてしまい、それは言いすぎなんじゃないか、と思わざるを得ませんでした。何かしらの「恋愛というもの、結婚というものはしなくても…」ということへの回答をしてほしかったです。

    最後に、「ムスリムの旧い価値観を啓蒙してあげるぞ」みたいなフェアではない目線で描きながらも、家族愛のようなもので全体を包みいかにも良いテーマであるかのように見せている感じが非常に気持ち悪く感じてしまいました。
    カズとマイム―ナが離婚してそれぞれの思い人とくっつくハッピーエンドにせずに、家族を大事にする保守的な考えにしっかりとのっかったうえで”演技”し続けながら「好意に落ち、愛を育む」、そういった形の結婚もまた肯定しても良かったのではないでしょうか。
    現代“風”でありながらもめちゃくちゃ古典的な考えで、また“人種や宗教の垣根を超えた平等性について語ってる”風でありながらも差別的な目線でしかない、あらゆることを表層的になぞるだけで、何も深く掘り下げない、この映画をどうしても好きになれません。

Vortexとギャスパー・ノエの映画について 感想

今年はめちゃくちゃ時間があり、いっぱい映画に触れることができた。とてもいい一年だった。

何か更新しよう、しようとは思いながらも、たまにそこそこ長文で映画の感想を某所にひっそりと書いていたら満足してしまっていた。

来年、特に後半は色々と忙しくなるため今年ほどは余暇に時間を割くことができないと思うのが残念でならない…

 

今年の映画館での映画〆として選んだ映画は「Vortex」。

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ギャスパー・ノエ監督の映画は「Climax」を初めて観た時に衝撃を受け、それ以来監督のファンとなり長編映画は全て鑑賞した。

Climax以降、長編映画として今作Vortexを製作している話は知っていたが、2021年のカンヌで上映されてからというものの、日本では上映される気配が全くなく、また日本語でのソフトも出るような雰囲気が一切なく、ここ2年ほど諦めていたが、今年になり上映が決まってとても嬉しかった。

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年末で忘年会や大掃除、帰省などで大忙しであったが、どうにか時間を作って観に行った。

 

まずは、おおまかな感想から述べていく。

この映画はノエ監督の以前までの映画であったような明確な暴力性やドラッグ描写、性的な描写がほとんどなく、静かに淡々と時間だけが流れていく。映画の中で見所はどこ?と聞かれると答えに詰まるし、ハートウォーミングなストーリーでもない。なんなら冗長ささえ感じられるような映画であるにもかかわらず、見終わって1日経つがいまだにこの映画が自分の心の中にズンと重いものがのしかかったままである。

この先の人生で何度もこの映画のこと、この映画体験を思い出すことになるのであろう。人生ベスト級の映画になった。

 

映画評論家の老人男性と元精神科医の妻、この2人を主軸に妻の認知症が進行していく様を描いた話である。

この映画で特筆すべき点といえば、やはりスプリットスクリーンだ。画面を2分割にして左右で別の画を見せることで何が同時に進行しているのかを伝えながら、その各場面場面において緊迫感や絶望感、すれ違い…などといった様々な役割を果たしている。

中編映画ではあるが、前作の「ルクス・エテルナ 永遠の光」においてもスプリットスクリーンが実験的に用いられていたが、その時には単なる事態の同時進行の表現としての役割しかなかった。

パンフレットの監督のコメントでは、当初はスプリットスクリーンを老夫婦の孤独を強調するために数シーンでしか用いないつもりであったが、現実というものが人の認識の集合体である、ということから全編にわたってこのシステムを導入したということだ。

その監督の意図は十分に伝わる映画になっており、その場面で描きたい人を2人に絞ることでそのそれぞれの視座としての1画面を確保しているのは見ていてすごく新鮮であった。(これが終盤に訪れるとある事件の大きな仕組みになっているのもまた面白かった)

 

今作を見るまで、この監督の映画の一貫したテーマとして「覆水盆に返らず」というようなことがあるものだと思っていたが、今回この映画を見て確信したのは、「覆水盆に返らず」といったテーマの上位にある「時間の絶対性」こそが通底したテーマなんだということに気づくことができた。時間の絶対性を主張したいからこそ、一度何かが起きてしまうとそこから坂道を転がる石のようにただ事態は進むのみ、という話に終始しがちなのだ。

今までの彼の映画の中ではドラッグ、性、暴力といったテーマでそういった部分を虚飾してきたが、今回の映画では現実性を以てそのテーマを描くことに向き合ったように思える。

“死”というものが生活の中から医療のものとなって久しい現在、生活の中にある死と破滅への香りだけで観客の興味を持続させるその手腕には感嘆せざるをえない。

今作で盆から溢れ出た水にあたるものは、「妻の認知症」であろう。治療不可の病気が夫婦の生活を徐々に蝕んでいく様を事細かに、それでいて敢えて劇的に描きすぎないことでリアルな恐怖を視聴者に与える。

 

アレックス(原題:irreversible)やClimaxなどで描かれる、特に前者で実際にテーマとして打ち出している「時は全てを破壊する」という部分が今回の映画のラストでも描かれる。このシークエンスはデヴィット・ロウリー監督の「A Ghost Story」を想起させる。

また、Enter the Voidで描かれる現実こそが“Void(虚)”である、という監督の姿勢が今回はエドガー・アラン・ポーの詩の引用から「人生は夢の中の夢である」という繰り返し発言される部分に反映されているように思う。

おそらく、Voidという言葉には空虚というイメージよりかは、“朧”であるというイメージを持っているのであろう。(実への対義)始まりと終わりに明確な境目がなく、実体がみえない。人生はひとつひとつは長いエピソードで構成されているにも関わらず、エピックなものをかき集めても大した長さにはならない。見どころなんてほんの数箇所しかない。そういった部分での映画と人生と夢との重ね合わせを思うと、ラストのたった数枚のスライドショーに人生が集約させてしまうあの葬式には涙が止まらなくなった。なぜ涙が出るのか、正直自分自身に問うてみてもわからない。悲しみなのか、人生を達観・諦観のようなものを見せられたことでの苦しみなのか、いずれ自分に訪れるであろうその時を思った時の恐怖なのか、まだ答えは出ないし、この答えを出すためにこの先生きていくことになるのだろうと思うとそれだけで苦しい。

 

もう年も明けるし、だいぶ酒も飲んだのでこれ以上まともな文章を書けそうにないのでこの辺で一旦考えるのをやめ、この絶対的な時の流れに身を任せていこうと思う。

 

去年今年 つらぬく棒の ごときもの (高浜虚子

この句の意味が年々はっきりとわかってくるような気がしている。良いお年を。

「紅い服の少女(紅衣小女孩)」 ネタバレあり 感想

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第一章は普通によかったと思うけど、第二章は中途半端さが目立ちすぎてると思うのは自分だけ?

第一章はこれ完全にジョジョの鉄塔だよね。

まぁでも普通にそこそこちゃんと怖いし、その鉄塔の数珠繋ぎみたいなのの始まりとかもちゃんとババアが山に入ってやっちゃいけないことしてしまったから目をつけられちゃったわけで、そこからの名前呼ばれて振り返ったらオワみたいな展開とか、でもそうなったら名前呼んじゃうじゃんねぇ!みたいなとことか普通にロジカルでよくできてるし納得性は高かった。

ハートフルエンドなんだけど、きちんと段階踏んでのハートフルだしいいエンドだったと思う。

難点があるとすれば、彼くん探しパートで救助隊と山に入るんだけど、そこでなんやかんやあっていつの間にか女さんが隊列のしんがりになってしまっているのはおかしいよね。物語上、そうしないと展開できないのかもしれないけど、山ど素人の女をしんがりにするプロの救助隊どうなってんだよ、って思ってしまったよね。

ラストのラストで第二章への匂わせというか、まだこの怪異は終わらんでー!!みたいな感じのもよかったし、ちょっと気を抜いた時にくるあの胎児ギョロッ!!!!!もちょっと声出すくらい吃驚した。

 

問題は第二章だよ。

ホラーなのか、バトルなのか、ハートフルなのか。本当に中途半端すぎる。

第一章であったロジックみたいなのはガン無視ですか?一番のヒキであるはずの「愛する人の名前を呼んじゃダメ…愛する人からの呼びかけに振り返っちゃダメ…」みたいなのを完全におもちゃにしてしまってて悲しくなったよ。

物語の大元になる娘失踪、あれなんでモーシンナアに目をつけられたの? 最序盤での違法森林伐採グループが狩られてるのを入れることで、住処を追われて街に繰り出してきた…って言いたいわけ?でもあれじゃその街に降りてきた感うっっっっすいよね。普通に住処荒らされてそれにキレて正当に狩り殺したようにしか見えないよ。

あと、最後までシンママが娘彼氏に娘の妊娠のことを切り出さない上に、娘彼氏を詰めようともしない展開は何???????????

このシンママは勿論娘を愛してはいるけれども、それでもその妊娠によって人生設計を狂わさせてしまったのは間違いないわけで、それがいろんなことの諸悪の根源なんだから、妖怪だのなんだのをすんなり受け入れる前に彼氏詰めるくらいの描写ないと意味わかんないだろ。ゴムなし射精マンへの怒り、どこに行ったよ。

なーーんかちょろっとだけ、実は娘の妊娠した子供は彼氏の子じゃない的なのあったけど実際どうなのかわからんし、それも幻想なのかもしれない。彼くんいい人すぎるだろ。知らん間に彼女レイプされてて子供できてて…それでも受け入れて結婚してくれるの。実家太そうだし心も太いのかもね。いい奴だよ、きっと。(実は彼氏は無責任膣内射精してなかったって描写あるまで、「こんないい奴そうな顔してるけどお前ガキ孕ませてんだぞ???」って終始心の中で突っ込んじゃってたよね。)

 

サプライズゲストじゃないけど、強い女さんの登場シーンは震えたし、その後の実はイケメンくんと祖母はあのあと死んじゃって、せっかく子供できてたのに子供も死産しちゃった…って展開はビビったね。第一章でやったことを完全に破壊するスタイルを見せつけられて、ここからこれをどう持って行くんだろう…??って思って結構ワクワクしたよ。でも、そこそんな深掘りしないでなんかモーシンナアに一度でも誘拐されたらどうなろうと死んじゃうシステムがあって、女さんの胎児はその呪いを代わりに背負ったんだ、みたいに結論づけていて微妙すぎたね。

ってか、この強い女さんの周りで人死にすぎでしょ。こいつコナンくんか?

でも、ラストの方で夫に化けたモーシンナアときちんと対峙して思いを断つシーンはちょっとアツかったよ。

形は違えど、子供と一緒になることができてよかったね。よかったのか?????

第一章ではあんなに美人だったのに、第二章では色んなことがありすぎて心神耗弱しきっていて面影はあるものの別人感すごくて吃驚した。こんなに人って変わるんだなって。

 

児相案件コンスタンティンババアもなんかちょっと意味わかんないんだよな。腕ドン!!悪霊バン!!はカッコよかったけど。

死んだ娘と同じ名前を次女にもつけるのちょっとキツイし、そこを受け入れたとしても娘を守るためだのなんだの言ってやってること結局虐待じゃん。そこは擁護できないよ。本当に娘守るならさっさと台北抜けて別のとこ行けや。護符とか祭壇みたいなのいっぱい作る金あるなら引っ越せよマジで。

中盤の回想パート 長女死んでからあんな精神状態だったのによく次女つくるメンタルまで持ち直したよな。長女死んだのをめちゃ引き摺ってるとこを理解ある彼くんが現れて孕まされて捨てられたんかな。メンヘラっぽいし仕方ないか。

 

ラストのバケモンVSバケモンバトル、笑っちゃったね。

ラストの前までモーシンナアは結構理不尽に人間を襲うんだけど、虎憑依彼氏ボロボロで娘もなんかやべーのに取り憑かれてもう絶体絶命!!みたいな時に、モーシンナア微動だにせず!の展開はなんなんだ?ガッツリご都合主義すぎて大爆笑だったや。なんかブレすぎでしょ。

 

終始、母と子供の関係性を第一章、第二章ともに描いてるんだけど、テーマの深そうさに対して描いている内容の幼稚さが酷くない?

中絶ダメ!絶対!!!!!とか、死産ぴえん🥺とか、親子愛最強!!とか、分かり合えないことはないんだ!!!みたいなのとか。

「ここ、ハートフルなんで泣いてくださいよ〜???」をありありと見せつけられて流石に冷めちゃうわ。第一章はその感じがちょっとは鼻につくんだけどそんな強くなくて、むしろそれ以外のザ・ホラー映画!みたいな部分が大きかったから素直に楽しめたんだけど、第二章はこの浅いハートフルがもう前面に出ていて見ていられなかった。

観終わってからググったりTwitter等でサーチしてて、「台湾では子供を〜」とかこういう文化なんだよ、ってのを見かけたけど、それはそれとしても酷かったと思う。

中絶のこと一つとっても、「命は素晴らしい!中絶なんて悪なんだ!!!」みたいな印象しか受けないし、望まない妊娠をしてしまった背景であったり無責任男側のクソさであったりとかを全く掘り下げないのはどうなんだろうね。それでなんか最後高校中退したか知らんけど、娘が子供を無事出産したのをみんなで無条件に喜ぶのを見せられてもなんも解決してないというか、全く溜飲が下がらない。泣けねえよ。

 

申し訳程度の社会問題描写というか、第二章の序盤で外国人労働者を違法に働かせて森林伐採してるシーンとか、モーシンナアはそういう自然破壊のせいで山から人里に降りてきたんだ!みたいな感じのことあったけど、これも薄い。薄すぎる。

 

なんか第二章ってとっ散らかりすぎなんだよね。

人間ドラマを描きたいのか、バケモンバトル描きたいのか、社会問題提起したいのか。なんか全部中途半端で浅いまま終わっちゃってるよ。

もうみんなで呪術大戦 陰陽五派 火龍vs白虎でもみない?多分こっちの方がバカに振り切ってて面白いと思うよ。今度見ようっと♪

 

 

第三章、というか外伝としてビビアン・スー主演で人面魚ってのやってるんだね。

ビビアン・スー変わらんね。綺麗やね。でも観に行く気持ちは起きません…ごめんね。

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おわり。満足しました。

「紅い服の少女(紅衣小女孩)」第一章 第二章観てきました 感想 ネタバレなし

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映画はにわかだけどまぁまぁ好きで、8月とかちょっと暇だったから映画館にもちょいちょい足を運んでいたが、9月は忙しくてたまに家で見る程度に収まっていた。10月に入ってほんのちょっとだけ暇ができたので折角だし映画館に行こうと思った。

「LAMB」や「沈黙のパレード」も観たかったのだが、ちょっと前に観た「呪詛」や「女神の継承」などでちょっとアジアホラー熱があったのと、大手のシネコンじゃないとこに行きたいという逆張り精神で、Twitterで偶々目にした「紅い服の少女」の2部作を観に行った次第である。

 

第一章と第二章、それぞれ感想を書いていこうと思う。

 

第一章

 

主な登場人物は、不動産営業でめちゃくちゃ汗水垂らして頑張ってるイケメンくん、そのイケメンくんのたった一人の肉親の祖母、イケメンくんの彼女の強い女さん(バリバリ仕事して稼ぎがあって、男からのなし崩し的な誘いをキッパリと断れる“強い”女さん)の3人。

 

あらすじ

イケメンくんと祖母は二人暮らし。イケメンくんには強い女さんという彼女がいる。二人はいい感じだけど、女さんは結婚願望がなく、子作りに拒否感を持っている。祖母は結婚しない女さんに対して不誠実だのなんだのほざいてる。それが原因で祖母とイケメンくんはちょっと仲悪くなってる。そんな中、近所のとあるババアが突如行方不明となった。その行方不明事件を機に周囲で何やら変なことが起こり始める。

ある日、仕事終わりにイケメンくんが彼女を実家に連れて行くと、祖母がいなくなっていた。

次々に行方不明になるこの一連の事件にはモーシンナア(魔神仔)という妖怪が関係してるのではないか…?

 

感想

まぁ、普通に怖かった。あー絶対ここ怖いの来るよねってとこでちゃんとカメラドーン!!からの音ドーン!!!って感じでビビりな自分は普通にビビってた。(そのジャンプスケア一辺倒って言っちゃえばそれまでなんだけど、普通に怖いもんは怖いじゃんね)

ホラーあるある的な展開とか怖がらせ方だから冷める人は冷めるんだろうけど、自分は普通に楽しめたかな。

多少のツッコミ所とかだいぶ気になるCGのテカテカ感とかあるけど、そこはもうしょうがないかなって思えたかな。

CGは金かかるからしょうがないかなってなるけどなんかリアリティとかそういうの求める人は毛嫌いするかもね。

ちゃんと第二章を匂わせるラストとか、しっかり起承転結あるというか、それなりにその世界でのロジックとしては一つ筋が通ってるというか、その点は普通にしっかりしてたから自分は第一章は良かったと思う。90分だしさっくり観られてよかったよ。

あと、強い女さん役の女優さんの顔立ちがあまりにもいい。

呪怨みたいにこえーガキがドン!!!キャーーーー!!!で人間は反射的にビビる。怖いよやっぱ。来るってわかってても。

 

第二章

 

主な登場人物

児相みたいなとこに勤めてる若いシンママ、シンママの高校生の娘、娘の彼氏、児相案件のババア、スペシャルゲスト

 

あらすじ

シンママはめちゃくちゃ仕事忙しくて思春期の娘に構ってあげられず、母子関係は最悪。児相のお仕事ではなんか意味深な線香くさそうなババアが娘を軟禁してて強引にその娘を施設にブッ込む。なんかその仕事の後からその児相案件ババアにちょいストーキングされては「娘を返して…あんたにはわからんけどやばいことになる…」みたいなこと言われて気味悪い。そんな中娘が実は妊娠してるのが明らかになり、中絶するしないで大喧嘩。そのまま娘は失踪してしまう。

色んなとこに連絡してみたけど全く娘の居場所わからず。娘の彼氏が判明し、そいつのとこに行くとなんかやべー儀式してる。

そんなこんなで娘の失踪前の行動が監視カメラから明らかになり、救助隊と娘が消えた山に入るとそこには…

 

感想

ネタバレなしで感想書くのは難しい。なんか生魚食べたいなぁって思って胡麻鯖定食を頼んだら、頼んでない焼き鯖定食出てきた感じだった。

いや、焼き鯖じゃないんだよな。食いたいの。しかも、焼き鯖定食なのに大根おろしも味噌汁もついてねぇ。

自分が公式Twitterとか予告とか全く見てなかったのが悪いのかもしれんな。

でもちょっと…そういうことにしたいなら足りてないもの多くないか?連続で観たせいかドーン!でビビれない身体になっちゃってたから入り込めなかったのか?やっぱ自分が悪いんか?教えてくれよ…

真実って言うけど完全に第一章の内容その真実に関係なくない?

第一章でちょっと鼻につくけどそんなに気にならなかった部分みたいなのが膨れ上がってない?

ってかなんでそのシンママの娘は妖怪に誘拐されたわけ????第一章にあったロジカルさみたいなの全くなくなってるじゃん…

 

 

 

 

 

終わり。ネタバレありで感想書くか。二章やっぱきちいよ。

令和3年 年の瀬

前回の更新から結構な日が経った。

下書きにいくつか溜まっているが清書が面倒という理由から書きかけのまま放置されて腐り始めてる。

書き始めから書き終えるまでのモチベーションを維持するのがとても難しい。

お金を貰う、相当数の閲覧者やコメントがある、といった見返りがない限り純粋な気持ちだけではなかなか続かないものである。

 

最近は普通に忙しかったり、料理にハマっていたり、料理のネタを探すためにYouTubeを漁ったりといったことばかりしていた。

 

以下見栄え良くできたもの

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トマトリゾット

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ポテトグラタン

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麻婆豆腐

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鶏胸肉のソテー

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鶏レバーパテ

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鶏胸肉のカチャトーラ

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クロックムッシュ

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ニラ饅頭 皮から作った



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チョコのテリーヌ


極度の出不精なので何処かで美味しいご飯食べるより家でシコシコ作ったほうが楽しいと思ってしまう。

春から夏頃は魚料理を中心に色々とやっていたが、秋以降パスタなどのイタリアンと肉料理にハマってちょこちょこ作っている。

野菜の端材で出汁を取るようなマネまでし始めて完全にカブれてしまってる。

 

ソフリットときのこペーストを作り置きするとあれこれ役に立つ。ソフリットは少し時間かかる上にそんなに量できないが、きのこペーストは色んなきのこをぶつ切りにして炒めながら少量の塩と白ワインで味と香り付けしてブレンダーにかけるだけで出来上がるので相当簡単だから作り得だ。

ソースなどに入れるだけできのこのいい風味が出るしコクも出る。そしてチーズのような謎のまろやかさもありカロリーも控えめ。

是非作って欲しい。

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キノコペースト。なんかキモい。

 

昨日久々に映画「凪待ち」を観た。なんか感想でも書けたら書きたいな。

 

うたわれるものが悪い

前回、「今週見る映画決める」とか抜かしておいて、なんとまだ観ておりません。

 

azsxtan.hatenablog.com

 

というのも、うたわれるものの2作目、3作目をやってたからですね。

1作目のアニメ版を観て暫くその関連のラジオ聴いたらOVA観たり曲聴いたり…としていたのだが、ふと2作目のアニメが目に入り観ることにした。

 

正直アニメはゴミだった。2クール分あるのだが、終始「内容うっす、いや寒すぎ、おもんな」と独り言言ったかわからない。特に最終回とか「寒い」連呼してた。

 

「でもあの天下のうたわれるものだよ??」と思い、アニメ化がクソなだけでゲームのシナリオはいいはず、そうであってくれ、と祈りながらゲームの方を始めた。

 

「スマホで読むうたわれるもの vol.01」をApp Storeで

 

アクアプラスありがと〜。1〜3作目全てシナリオのみのゲームとしてアプリを出しておりしかも無料。やらない理由がない、ということで2,3作目のシナリオを鑑賞させていただいた。

 

結論から述べると、「やっぱ天下のうたわれるものなんだよなぁ…」という感じだった。

 

1作目は元々2002年発売のものであり、それ自体で完結するように出来ているため、それ一本での完成度は非常に高く、アニメ版も少々説明不足な点が否めないがそれでも完成度が高い。

 

その続編を13年越しに2015年に発売したのが2作目の「うたわれるもの 偽りの仮面」なのだ。当時そこそこ盛り上がってたのを覚えてるし、アニメも観ようかなと思ったのだが、諸々の事情で忙しく、いつの間にか失念してしまっていた。

本当に今更ながらハマった自分が恥ずかしい。ハマるのが遅すぎた。

 

というわけで、二作目の偽りの仮面のアニメのクソポイント

①アトゥイのキャラクター描写の改悪

2作目だけなら別に大した改変でもないし、なんなら少し気を利かせたまであるポイントなのだが、3作目までやった上で考え直すと相当な改悪ポイントである。

戦闘狂的要素の描写の薄さ。まぁこれは頑張ればどうにでもなるから目を瞑ろう。

明らかにハクに恋して、死を悲しむ描写

一番のゴミ要素。アニメ脚本の人3作目やった?と疑いたくなるレベル。「死んだ人は仕方ないから笑って見送るしかない」という妙に達観した死生観

ハクのことを悪く思ってはないが、面白い友達程度としか思っていない

これが3作目でハクを喪ってからオシュトルと旅をしていく中でその想いがどんどん膨らんでいく、これが必見ポイントの一つなのに。

 

②ルルティエの腐女子描写を無駄に強調

いる?そんな余裕なかったのにそこに割く必要ある?ほかにやることあるだろ。

 

③最終回の激寒演出

声なしのテロップだけで明らかに涙を誘うのは相当醒める。

この演出をこの物語の最後の大きな仕掛けをギリギリまで隠すためのものかと思えばそうでもなく、普通に途中でオシュトルに喋らせてそこで大体オチがわかる。本当にいらない演出。普通にやって良くない?

あと、ウルゥルとサラァラがハクをオシュトルに変身させるシーン。これ出したらいかんでしょうよ…なんとなく顔を似せてる設定とか、常に仮面をつけないといけない理由がなくなる。

 

 これは仕方ない二作目のアニメのやむなしクソポイント

・視点移動が多い

ゲームだと時間的な制約が緩く、心内描写を描きやすいため、多少視点移動が多くてもゲームをやっている側には十分伝わるが、アニメだとそうもいかない。

さらに、シナリオで主人公の周囲のキャラの成長が物語の要所になっていることからその視点で描かなくては伝わらない。

1作目は主人公の仲間になる人のほとんどが成熟しており、その成長を描く必要がなかったため、アニメ化もうまくいったのだと思う。

視点を描き分ける必要性と時間的制約から所々俯瞰的な視点で作られているところが見られ、そのせいでハクが行き当たりばったりの運クソ野郎のバカみたいな感じが出てしまう。

 ・2作目3作目合わせて一つの物語であり、2作目はその大きな物語の起承転結の起の部分でしかないため、話として少し面白みに欠けるのも致し方ない。

 

 

オタクくんスキスキポイント

①サブタイトルの意味の変遷とかミスリード

「偽りの仮面」が当初は前作との比較でのハクオロに対するオシュトルのことかと思いきやの、ヤマトの国の仮面の者全体をさすかと思いきやの、ラストの大きな仕掛けそのものという流れが良かったね。

「二人の白皇」もハクとクオン→ハクとハクオロ→クオンとアンジュと意味が変遷していき、それによって物語が展開されていく。

 

②「不安定な神様」の意味よね。


www.youtube.com

二作目だけではクオン視点のハクのことかと思いきや、三作目までいくとハク視点のクオンのことでも言えるし、なんなら一作目まで考えるとハクオロ視点ともとれるよね。

 

②空蝉と写し身のところがいいね。

こういう似た響きの語句をリフレインすることで記憶に刷り込んでくるのとか、前作でちょっとだけ出てきたフレーズをスッとさりげなく忍ばせるのがオタク君大好きだよね。ワイ君も好きやで^^

 

③一作目と三作目のリンク

ハクとハクオロの設定の類似は言うまでもないが、戦いに巻き込まれていくのも「やむを得ない理由から」戦わざるを得なくなり、そこから戦の連鎖に巻き込まれていくというのも類似している。ラストの展開もまたね、、、。

 

 

うたわれるものは大河であり、叶わぬ恋であり、永遠の愛であり、SFである。

 盛りだくさんだが、しっかりと纏まった最高のゲームでした。面白かった。

ちな、3作目のラストを公園で散歩中一息ついているときにやったら人目憚らずに大号泣しちゃったね。通報されなくてよかった~

 

というわけで明日から映画観ます。アニメとかシナリオゲーのオススメも募集してます。

来週までに観る映画選びと最近の話

映画を観ては毎週感想を書くように努めようとしているのだが、書き言葉で記すとなると遅々として進まず、箇条書きで書きたいことを列挙してだいぶ満足してしまう。

 

また、ここ数日うたわれるもののアニメにドはまりしてしまい、合間を縫って観ている。2000~2012くらいまでのエロゲ原作アニメ、結構好きで大体ハマってしまう。


anime.dmkt-sp.jp

うたわれるものといえばラジオも有名であり、兼ねてより聞きたかった「うたわれるものらじお」を聴くことにした。(15年前のラジオだが)

柚木涼香小山力也の夫婦漫才のような掛け合いがとても面白く、回を追うごとにどんどん過激になっていくのがまたいい。

 

更に、最近魚料理に凝っていてイワシ、アジ、キビナゴ、タチウオなど捌いてあれこれ作っている。美味しいし楽しい。料理をやっているときは無心になれる。

特にイワシの酢〆の炙りが本当に美味しかった。またやりたい。

 

で、タイトルの通り来週までに観る映画を決めたいと思い、とりあえず観たいもののリストやアマゾンのウォッチリストから8つ見繕ってルーレットを回した。

youtu.be

というわけで「その夜の侍」を観ることにする。感想も頑張って書くぞ!

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おすすめがあればツイッターなりコメントなりに送ってクレメンス、、。

 

感想とか別に誰が見るわけでもないし、書かないといけない理由はないのだが、折角映画を観て、そのまま放置するのも勿体ないし、そういった形で消費してしまうのが何となく申し訳なさもあるし、何よりあとで自分で見返すと割と面白さがあるからやめたくならない程度に自分に負荷をかけつつ書いていきたい。