映画「ふがいない僕は空を見た」 感想

週一で必ず映画を観てなにかの感想を書くように努めている。(早速先週見た「いまを生きる」の感想を下書きに溜めているが)

 

今回見た映画は「ふがいない僕は空を見た」だ。

前々から見よう見ようと思いAmazonPrimeVideoのウォッチリストに入れていたのだが、埋もれに埋もれてすっかり忘れ去ろうとしてたが、つい先日「見放題が終了する映画」の欄をふと見るとこの作品が入っていて焦って見ることにした。(自分の生き方そのもので、期限が迫らないとどうしても何もできない。ほんとバカ。)

ふがいない僕は空を見た

ふがいない僕は空を見た

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 24日までみたいなので見てない人は是非。

 

映画開始早々、キツい妄想全開の台本ありきのコスプレセックスから始まり、クソデカいモザイクがドーン。流石に?と思いつつ、後30分つまらなかったらやめようかな、と思いつつタイトルカットが入り、なんなんだこの映画、、、と思いながら観始めた。

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この映画はわかりやすく5部からなるチャプターで構成されていた。

チャプター毎に粗筋と感想を書いていきたいと思う。

 

 

第1部:主人公である「サイトウタクミ」視点のこの物語の「起」の部分

タクミが既婚者であるサトミ(HN:あんず)と同人誌即売会で出会い、2人が肉体関係を持つことになり、一度はタクミから別れを切り出すも、ふらふらとまたサトミのところに戻り初めてコスプレではない裸と裸の、“あんず”と“ムラマサ”ではなく“サトミ”と“タクミ”としてのセックスをするところで終わる。

 

後の話の流れを汲むとこのチャプターの意味合いであったり、良さであったりがしっかり浮き上がってくるのだが、頭からこのパート終わりまでの初見の率直な感想は一言で言えば「しょーもな」だった。

ナヨナヨして消極的な高校生のバカオスが明らかなオタク地雷人妻に気に入られてセックスしてズブズブになるだけじゃんね。この30分キツすぎんだろ…

 

でも、二人の出会いのシーンの同人誌即売会にタクミを連れてきたヨシカワくんの”女オタクに話しかけるときにちょっと上から話しかけつつも女慣れしてないから声が上ずる”演技が素晴らしかった。

 

第2部:第1部で描かれた部分のサトミ視点

タクミ視点から一方的に頭と股の緩いオタク人妻のように描かれていたサトミだが、彼女の視点から見るとしっかりと裏があったことがわかる。

 

夫との間に子供がなかなかできず、不妊治療に踏み切るもなかなか実らない。夫はあまりそのことに関心がないのに、姑には子供ができないことをいびられ続け、精神的苦境に立つこととなる。

短大時代にいじめられていたようであり友達も少なく、また実母を亡くしているため相談できる、心の拠り所とできる人がいないため日々苦しさが増していく。

その最中、同人誌即売会でタイミングよくなのか悪くなのかわからないが、昔からの推しキャラに似たタクミと出会ってしまう。

 

・そういう暗い過去や、辛い現実からの逃避のためのコスプレ等の同人活動

 

・もうちょい恋に恋するようなバカっぽさがあるような感じだと良かったかもと思った。

 

第3部:タクミの幼馴染の団地暮らしの苦学生のフクダくん視点から描かれる1、2部の後の出来事

ここのパートだけで映画として成立しうるほど素晴らしい出来だったと思う。

 

まず、このフクダのとてつもない苦学生っぷりが描かれる。早朝から新聞配達、そのまま登校し、授業中は睡眠時間に充て、放課後は夜遅くまでコンビニのアルバイト。団地で祖母と二人暮らしであり、その祖母も認知症を患っており、度々問題行動を起こす。

一応母親がいるのだが、他に男を作っており、そこに転がり込んでおり、借金まみれ。フクダくんと暮らす祖母も元夫の母であるから自分とは無関係であるとして介護を放棄している。

 

見ての通り“人生ハードモード”であり、

 

・フクダくん自身の人柄の良さ。

おそらく育児放棄してたであろう母親の代わりに面倒を見てくれた祖母への恩を感じており、祖母を放っておけない。

67円しかないのに万引きもせずちゃんとお金を払ってチロルチョコ三つ買って飢えを凌ぐ様。(弁当の誘惑に耐えつつ)

・せっかく生活をやりくりするために頑張っていたアルバイトのお金の入った通帳が母に取られるが、怒るかでもなく諦めたような顔で母の家の前に行き、実の息子に対しても居留守を使う親に「なんで産んだのか」という思いを吐露

・バイト先の病院の息子、高級マンション暮らしの大学生タカオカから「そのままでいいのか?」と勉強面で手厚いサポートしてくれる。

・てんちょの財布を見てしまい、つい魔が差した瞬間を店長に見られてバイトを逃げ出すその時に祖母が団地を水浸しに。そんな絶望の淵に差し伸べられる二つの救いの手。一つはタクミの母からの弁当。貪るように食うシーンが印象。特にフクダだけでなく、同じ団地暮らしのアクツも一緒にという点。

もう一つはタカオカからの救いの手。祖母の入院を勧め、自分の家の病院に都合をつけてもらう。

だが、後者のいいことというのはタカオカ自身の罪の意識の捌け口であった、という哀しい突き放され方をする。

だが、タカオカが授けてくれた知識や考え、そしてタカオカが随所に見せる優しさ(救いの手もそうだし、万引き少年らへの対応もだし)は本物だと信じ、団地の少女に救いの手を自ら伸ばすその時にタカオカに思いを馳せ、タカオカが救われるように“供える”ようにした祈るこのパートの最後。最高。

・生まれながらの苦境、それが故に自らに降り掛かる不条理の跳ね返し方。当初はネガティブにタクミを自分より下にすることで晴らそうとする。(ここのシーンをより綺麗に描くことで、こういうことでしか救われない悲しみがより一層際立っている)だが、塞ぎ込んでいるタクミを目の当たりにし、またクラスでバカにする陽キャへの抑えられない怒り。自己矛盾を振り払うように「自分だけ不幸なフリしてんじゃねぇよ」とタクミに冷たく言い放つことでそこから這い出るポジティブに変えていくのがいい

 

 

第4部:タクミの母視点での仕事観と祈り

タクミの母親の視点で、仕事を通しての辛さや悩みや祈り、タクミが立ち直っていく姿が描かれている。

自然分娩の”自然”とはどういうことなのか。出産だけが母親の資質を決めるものではないということ。そしてここで一番大きく描かれるのが「出産後すぐに死ぬ子らの、その短い生には意味があるのか納得できるように教えてほしい」という切実な思いだ。

第1部でタクミの母親はタクミの視点から助産師をしつつもどこかビジネスライクであり、腹黒く、仕事への信念のようなものがないように描かれていたが、その奥にはその仕事に真摯に向き合ったが故の悩み、苦しみ、辛さがあることがわかった。しかしそれは自分自身ではどうしようもない、抗うことのできない問題であるため、自分の中で折り合いをつけるべく諦めつつ祈るしかない、という不甲斐なさ、無力感からくるものであった。

かと言ってそこから逃げるのではなく、真剣に向き合い、そのことを忘れないために唯一できる行為である“祈り”を捧げるのであった。

 

このパートでの一番印象的なセリフである、自らの過ちと向き合い少しずつ立ち直っていくタクミと偶然夜の神社で「生きて、そこにいて」という台詞だ。

 

第5部:エピローグ

 

・タクミの再登校。クラスでバカにされるも、怒れず、かといって逃げ出しもせず、情けない笑顔で誤魔化す。だが確かに成長している姿。

・勉強に励むフクダ

テロップで入る「僕たちは 僕たちの人生を 本当に自分で選んだか」

・新たに人生を歩むことを決意するサトミ(このシーンのフォーカスの使い方好き)

 

・元担任の女の出産とそれに立ち会うタクミの最後の一言「厄介なもんつけて生まれてきたなー」その表情。

 

 

 

1〜4部を通して性と生が主として描かれる

進むにつれて問題の階層が深くなっていく

1部は完全に自己責任

2部は自分で選んだことである以上は責任を取らざるを得ないが、やむを得ない裏があること

3部は生まれながらにして選べなかった環境から生じる不条理

4部は生まれる瞬間やその前後に存在する生と死

1〜3部での問題はどうにか足掻ける。だが4部の生死に関わる問題は手を尽くしてもどうしようも無い。

だからこそ生きている以上は「生きて、そこにい」なくてはならない。

 

このような構造がエピローグのテロップ「僕たちは 僕たちの人生を 本当に自分で選んだか」という言葉を通して浮かび上がってくる。

 

精神的な苦しみや痛みは休んだり、逃げたり、間違えたりと遠回りしながらも生きて立ち向かっていくことでしか解決されない。死んだ人を救うことは誰もできない。

「自分だけ不幸なフリしてんじゃねぇよ」というフクダのように冷淡に言い放つ映画。

 

精神的な苦しみや辛さは他人との間で相対化されるべきものではなく、それぞれの個々人の中の絶対的なものである。だから「お前よりも俺が不幸」ではなく、「お前だけが不幸なフリをしてるんじゃない」のである。また、だからこそ他人からの助力はあっても最後に解決しないといけないのは、それに立ち向かわないといけないのは自分自身しかいない。

 

「天は自らを助くるものを助く」と言うが、天も神も何もしてくれない。ただ、救われる人というのは救われたいと願った人だけなのだ。自ら破滅を願う者には救いは訪れない。

辛いこと、苦しいこと、悲しいことが起きた時、それを解決するだけの力がなく不甲斐なさを覚えたとしても、そこで絶望し破滅の道を選ぶのではなく、空を見てただひたすら救いを求めて祈り、前を向き、ゆっくりでもいいからそのことに向き合っていかねばならない。