Vortexとギャスパー・ノエの映画について 感想

今年はめちゃくちゃ時間があり、いっぱい映画に触れることができた。とてもいい一年だった。

何か更新しよう、しようとは思いながらも、たまにそこそこ長文で映画の感想を某所にひっそりと書いていたら満足してしまっていた。

来年、特に後半は色々と忙しくなるため今年ほどは余暇に時間を割くことができないと思うのが残念でならない…

 

今年の映画館での映画〆として選んだ映画は「Vortex」。

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ギャスパー・ノエ監督の映画は「Climax」を初めて観た時に衝撃を受け、それ以来監督のファンとなり長編映画は全て鑑賞した。

Climax以降、長編映画として今作Vortexを製作している話は知っていたが、2021年のカンヌで上映されてからというものの、日本では上映される気配が全くなく、また日本語でのソフトも出るような雰囲気が一切なく、ここ2年ほど諦めていたが、今年になり上映が決まってとても嬉しかった。

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年末で忘年会や大掃除、帰省などで大忙しであったが、どうにか時間を作って観に行った。

 

まずは、おおまかな感想から述べていく。

この映画はノエ監督の以前までの映画であったような明確な暴力性やドラッグ描写、性的な描写がほとんどなく、静かに淡々と時間だけが流れていく。映画の中で見所はどこ?と聞かれると答えに詰まるし、ハートウォーミングなストーリーでもない。なんなら冗長ささえ感じられるような映画であるにもかかわらず、見終わって1日経つがいまだにこの映画が自分の心の中にズンと重いものがのしかかったままである。

この先の人生で何度もこの映画のこと、この映画体験を思い出すことになるのであろう。人生ベスト級の映画になった。

 

映画評論家の老人男性と元精神科医の妻、この2人を主軸に妻の認知症が進行していく様を描いた話である。

この映画で特筆すべき点といえば、やはりスプリットスクリーンだ。画面を2分割にして左右で別の画を見せることで何が同時に進行しているのかを伝えながら、その各場面場面において緊迫感や絶望感、すれ違い…などといった様々な役割を果たしている。

中編映画ではあるが、前作の「ルクス・エテルナ 永遠の光」においてもスプリットスクリーンが実験的に用いられていたが、その時には単なる事態の同時進行の表現としての役割しかなかった。

パンフレットの監督のコメントでは、当初はスプリットスクリーンを老夫婦の孤独を強調するために数シーンでしか用いないつもりであったが、現実というものが人の認識の集合体である、ということから全編にわたってこのシステムを導入したということだ。

その監督の意図は十分に伝わる映画になっており、その場面で描きたい人を2人に絞ることでそのそれぞれの視座としての1画面を確保しているのは見ていてすごく新鮮であった。(これが終盤に訪れるとある事件の大きな仕組みになっているのもまた面白かった)

 

今作を見るまで、この監督の映画の一貫したテーマとして「覆水盆に返らず」というようなことがあるものだと思っていたが、今回この映画を見て確信したのは、「覆水盆に返らず」といったテーマの上位にある「時間の絶対性」こそが通底したテーマなんだということに気づくことができた。時間の絶対性を主張したいからこそ、一度何かが起きてしまうとそこから坂道を転がる石のようにただ事態は進むのみ、という話に終始しがちなのだ。

今までの彼の映画の中ではドラッグ、性、暴力といったテーマでそういった部分を虚飾してきたが、今回の映画では現実性を以てそのテーマを描くことに向き合ったように思える。

“死”というものが生活の中から医療のものとなって久しい現在、生活の中にある死と破滅への香りだけで観客の興味を持続させるその手腕には感嘆せざるをえない。

今作で盆から溢れ出た水にあたるものは、「妻の認知症」であろう。治療不可の病気が夫婦の生活を徐々に蝕んでいく様を事細かに、それでいて敢えて劇的に描きすぎないことでリアルな恐怖を視聴者に与える。

 

アレックス(原題:irreversible)やClimaxなどで描かれる、特に前者で実際にテーマとして打ち出している「時は全てを破壊する」という部分が今回の映画のラストでも描かれる。このシークエンスはデヴィット・ロウリー監督の「A Ghost Story」を想起させる。

また、Enter the Voidで描かれる現実こそが“Void(虚)”である、という監督の姿勢が今回はエドガー・アラン・ポーの詩の引用から「人生は夢の中の夢である」という繰り返し発言される部分に反映されているように思う。

おそらく、Voidという言葉には空虚というイメージよりかは、“朧”であるというイメージを持っているのであろう。(実への対義)始まりと終わりに明確な境目がなく、実体がみえない。人生はひとつひとつは長いエピソードで構成されているにも関わらず、エピックなものをかき集めても大した長さにはならない。見どころなんてほんの数箇所しかない。そういった部分での映画と人生と夢との重ね合わせを思うと、ラストのたった数枚のスライドショーに人生が集約させてしまうあの葬式には涙が止まらなくなった。なぜ涙が出るのか、正直自分自身に問うてみてもわからない。悲しみなのか、人生を達観・諦観のようなものを見せられたことでの苦しみなのか、いずれ自分に訪れるであろうその時を思った時の恐怖なのか、まだ答えは出ないし、この答えを出すためにこの先生きていくことになるのだろうと思うとそれだけで苦しい。

 

もう年も明けるし、だいぶ酒も飲んだのでこれ以上まともな文章を書けそうにないのでこの辺で一旦考えるのをやめ、この絶対的な時の流れに身を任せていこうと思う。

 

去年今年 つらぬく棒の ごときもの (高浜虚子

この句の意味が年々はっきりとわかってくるような気がしている。良いお年を。