最近の映画のあれこれ
最近文章を書くのをかなりさぼっていた。
というのも、働きだしてからそれなりになにかと文字を打つことが増え、家に帰ってまでそういった作業をしたくない、という気持ちが日に日に強まっているからだ。
それはそうと今年に入ってから仕事しつつもなんやかんやでコンスタントに映画を観ている。
昨年までに比べて映画館に行く頻度や映画そのものを観る頻度は減ったが、それは昨年までが異常に時間があって異常にのめり込んでいただけで、仕事しながらにしてはかなり映画に接して過ごしている気がする。
新作41本旧作73本の計114本を年始から今日まで観た。ぼちぼちである。
新作で良かったもの
・リアルペイン
・Anora
・トワイライトウォリアーズ
・ミッキー17
・教皇選挙
・サンダーボルツ
・サブスタンス
・ミッションインポッシブル/ファイナルレコニング
・罪人たち
・スーパーマン
・顔を捨てた男
・ラブインザビッグシティ
・キムズビデオ
・マルティネス
・遠い山並みの光
・愛はステロイド
・ブラッグドッグ
・ファイナルデッドブラッド
・ワンバトルアフターアナザー
・見はらし世代
・ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス
・旅と日々
旧作で良かったもの
・コップカー
・誰がため
・シュリ
・サマリア
・サンキュースモーキング
・オールユーニードイズキル
・ボイリングポイント
・クルエラ
・食人族
・セントオブウーマン
・アフターショック
・カンバセーション・・・盗聴・・・
・チャッピー
・新感染
・殺人に関する短いフィルム
・アートスクールコンフィデンシャル
・お葬式
このあたりでしょう。
新作はかなり選んで観に行っているが、かなりいい映画多くて満足度高い1年ですわな。
旧作のほうは、昨年までほど監督ローラーとか新作事前予習が十分にできなくなってきた(今年予習したの、PTA映画くらいかも…)せいか、今まで観ようと思っていたけど埋もれてしまっていた系のものを観るようになった。
スターシップトゥルーパーズはかなり自分の中でもここまでハマるとは思っていなかったくらいハマった。あの特有の気持ち悪さを話そのものの面白さでオブラートに包み切った上でしっかりとその気持ち悪さのメッセージ性を伝えきるヴァーホーヴェンの手腕に驚嘆した。
面白かったものの感想は帰宅してから風呂場で気持ちよく髪洗いながら一人でギャーギャーいうだけでかなり満足するが、期待していたのにつまらなかったものはかなり悶々としてなんか文字に起こしたくなるが、あまりにも負の感情すぎて、あまり起こさないようにしている。
国宝とかプレデターバッドランドとかのマジで嫌な感想ばかり頭には上ってくるけども…
気が向いたらこれらの映画の感想書き連ねていくか。ちょっと文字書く気持ち湧きつつあります。
てか、感想書くにあたってふと思い至った類似作品を…とか考えるとちょっと億劫になってしまうから気軽になにか書いていきたいね。
国宝とプレデターバッドランドはマジで肌に合わなかった。ごめんね。
オオカミの家 感想
オオカミの家
コロニアから逃げた少女が築くコロニーの始まりと終わり。三匹の子豚のお伽話。
同時上映の「骨」でもそうであったが、あくまで監督らは見つけた映像の修復に携わっただけ、というスタンスであり、別に製作者がいるという体で作られている。
今作はコロニア・ディグニダの教育ビデオ的な位置にあることが最初から明示されるために、結末が大体想像できてしまう。信仰を失った少女マリアが信仰を取り戻しコロニアに再び帰属する話なのだ、と。
コロニア・ディグニダの実態については既に知るところであるから、逃げ出したマリアの心を理解するのは難くないが、心の底から再び帰属することになる過程については話が始まる段階では想像だにできない。
コロニアから逃げ出したマリアはオオカミから隠れるために森の小屋を見つけそこに引きこもる。その小屋で見つけた2匹の子豚にペドロとアナと名付けコロニーを形成していく。ところが、マリアはコロニアで生まれ育ったため、“正しい子育て”を知らず、コロニアの指導者と同様にその子豚らの尊厳を踏み躙り、自分に良いように作り変えていく。
どんなに教義に嫌気が差し反抗しようとも、一度それが内面化されてしまったらそれを拭い去ることは難しい。自分の知らない・気づかないところでその教えが顔を出してくる。
知り合いのとあるカルト宗教2世で親と半絶縁状態の人の話を聞くことがあるが、どこか憎めない部分であったり、親元にまだいる兄弟であったりを想うと申し訳なさが先立つ時がある、ということを言っていた。今作でもマリアが施設の“兄弟”を想うシーンがある。
決して友達とは言えなくても、顔を思い出すことができ、彼らの事情や内面を少なからず知っていると、彼らを裏切ることはなかなかできることではない。そういった人間関係によって心を縛る部分もある。
コロニア・ディグニダは当時の政府との繋がりがあり、逃げ出したところで警察に捕まればまた送還されていた。このどこにも逃げ場はない絶望感を追体験できる。親に啖呵切って上京したものの、何もかも上手くいかず壊れ切って地元に帰る、とかの比ではない苦しさと辛さがある。
明るさを残しながら終始暗いトーンで描かれることから醸し出される特有の気味の悪さと息苦しいまでの閉塞感は唯一無二な気がする。とても好きな作品だった。
顕正会ドラえもん…だよね。
あと、中盤で鉤十字を経て窓になるシーンは意図的かどうかすごく気になったけど、パンフの寄稿にも同様のことが書かれていたのでおそらくみんな気づく箇所であり意図的なのだろう…コロニア・ディグニダはナチス残党だし…。
あのストップモーションの流動的な変化、自分の視野、注視している部分だけが世界の全てでそれ以外の場所には何もないんじゃないかと思わされた。
Sick of myself 感想
Sick of myself
見られる、ということへの悦に溺れていく
とても個人的には大好きな映画の1つとなった。
歪な関係性のカップルで、互いに話の中心になるために競い合い、平気で物を盗んだり嘘をついたりする。そんな中彼女がある日犬にかまれた女性を介抱したところ、周囲の人に注目されることとなり、それがきっかけで「血や傷=衆目を集めうる」ということに気付き、歯止めが利かなくなる。
傍から見るとこの主人公のシグネがしでかす全ての”良くない”ことが本人にそのまま返ってくる様子が非常に滑稽で面白おかしく笑ってしまうのだが、一方でその当人の側に立ってみると、どうしようもない救われない苦しみとの闘いであることに気付かされ、笑えなくなってくる。特にラストの集団セラピーでの「私は生きたい。」と呟きながら涙が頬を伝うシーンでは、思わずもらい泣きしてしまった。
劇中では明言されないが、シグネは明らかにミュンヒハウゼン症候群である。精神疾患を持つ人の周囲は、深く関われば関わるほど疲弊するためドライな関係性になっていく一方で、疾患を患っている当人は人とのつながりを強く求めてしまう。(一概にすべてそうであるとは言えないが。)このギャップを埋めることができるのが、親であったり恋人であったりなのだが、人間一人の人生を背負えるだけの覚悟がないとその仕事はつとまらない。
シグネには背負ってくれる親や恋人はおらず、症状が加速していかざるを得なくなっていくが、その様はとても苦しい。本人はただ生きたいだけなのに。
また、シグネの育った背景について目を向けてみると、母親が集団セラピーに通っていた過去があったり、シグネ自身が父親を憎んでいたりと、おそらくだが幼少期などに半ネグレクトのような状態にあったのではないか、若しくは別の形の虐待を受けていたのではないか、と想像してしまう。(劇中で描かれはしないが。)そう考えると、彼女が「他者に認められたい」と人一倍強く思ってしまうのは、そうならざるを得なかった背景があり、致し方のないことであったのではないか、と考えてしまう。
彼女なりの命の輝かせ方であったり、現実とのギャップであったり、憧れであったりといったものがこの映画では描かれており、最終的に自分自身と向き合おうとするその姿勢から少しだけだが成長していることを伺える。
言ってしまえば思春期モノやティーンエイジャーものなどでもよく描かれるような普遍的なだれしも抱えうる問題がテーマになっている。
そう考えると、シグネがスクリーンの向こうの”コメディアン”ではなく、少しは近しい存在、愛すべき存在として感じられる気がする。
アリアスターの短編「Munchausen」も併せて観るとまた面白いと思う。
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい 感想
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい
大学のサークル「ぬいぐるみサークル」に所属することになった七森剛志とその周囲を取り巻く人々との話
ぬいぐるみと話す、という行為自体が敢えてこの表現をするならば「“大人”になりきれていない」ことの証左となっているのだが、そもそも“大人になる”ということは何なのか、また社会性とはなんなのか、優しさとはなんなのか、ということに対しての問題提起があるように思われる。
優しさとは「想像力」と「共感性」がもたらすものだと私は考えている。デヴィッド・フォスター・ウォレスが「This is water.」のなかで述べていたように、自分の不快感の原因・対象の背景に想像力を働かせることで怒りではなく共感としてその感情を昇華させられるかどうかが優しさになると思っている。だが、怒りというのは人間において大事な感情であり、それを想像力や共感性といった“理”で蓋してしまうのは非常に危険である。(実際にウォレスは自ら命を絶つ選択をしたことからも分かるし、自分自身の経験からもそうなのかもしれない、と思っていることだが。)上手く“優しさ”を維持するためには“社会性”が必要だと思う。社会性という言葉自体はよく言われるものだが、もっと噛み砕いた言い方をすると“社会迎合性”と言えると思う。如何に社会に上手く迎合しつつ自らの意見・感情を表出できるか、というのが社会性という言葉の意味の根幹をなしていると思う。
この映画内の「ぬいサー」の面々の大半が高すぎる想像力や共感性を持っておきながら、社会性が伴っていない、という属性をもつ。それぞれそこに至る背景は異なれど、大きく捉えるとそう言える。感情の表出を社会に向けてできず、またその“社会”の輪がどんどんと自己を侵食し、社会に対してだけでなく日常から感情の表出が難しくなる。このような人たちの救済となるのが「ぬいぐるみとしゃべる」という行為だ。誰にも見られない、誰にも聞かれないぬいぐるみと自分との関係性、間柄、そこでのみ形成される社会、守られた社会の中で、安心して自分の内面を吐露できる。そうして自分の内面を言語化することでその感情を昇華するとともに、自分自身の内面に気づくことができる。ぬいぐるみと話す、ということを通して自らとの対話を行うことができるのだ。
“やさしい”人間に「悪意」が全く存在しないとは言えない。内面で渦巻くものに対しては誰も見ることも触れることもできない。その人の感情の表現型しか他人は評価し得ない。
個と個とでは分かり合えたとしても、個が集団に及ぼす影響や集団が個に及ぼす影響に対して如何様にもし難い部分があり、社会という構造自体が人間を悪たらしめているということは否めないと思う。
社会というものはマジョリティの最大公約数をとっているものでしかないため、マイノリティにとっては刺々しく、また悪意に満ち満ちたものに感じられると思う。
あるカテゴリではマジョリティでもあるカテゴリではマイノリティかもしれず、またそのパラダイムはいつ変わるのかわからない。
社会への迎合性を高め、所謂「スルースキル」を高く持つこと以外に自衛する術は今のところないような気がする。攻殻機動隊の草薙素子の「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」というのは個の社会に対する現実的なあり方を簡潔に示したものだと思う。ただ、そうやってやり過ごせばいい、というのはいじめっ子の理論であることもまた事実である。
月 感想
月
子を亡くし、様々な事情から小説も書けなくなってしまった元売れっ子作家が、生活のためにも森の中にある重度障害者施設で働くことにするが、そこで目の当たりにする様々な出来事により価値観を揺さぶられていくが…
この作品のテーマとしては大きく2つあるように思えた。一つは「生命倫理」でもう一つは「なんのために生きるのか」ということである。(ひいては2つ目のテーマも引いては生命倫理の問題へと集約されていくのだが。)
人々の心の中に潜在的に存在してしまう、自らとは異なるものに対する恐怖と拒絶、そこから生じてくる優生思想の萌芽を否定できない。頭ではしてはいけない、ダメなものである、としていても理解はできてしまう部分の難しさがある。
また、どこからが差別なのか、という問題もある。ラース・フォン・トリアー監督の「イディオッツ」では障害を持つ人に対して「仕方ない」と目を瞑ることや、過度に気にかけることもまた差別に値するのではないか?という提起があった。
・人工中絶と出生前診断
並行して描かれる生命倫理の問題として人工中絶と出生前診断の件がある。これもまた命の選別を行う、言ってしまえば優生思想的な面があるのは否めない。だが、障害を持って生まれてきた子供を育てる精神的な困難や経済的な困難などさまざまな問題が生じてしまいうるというのもまた事実であり、現段階では本人の希望があれば行う、ということになっており、全ては当事者の判断に委ねられている。勿論こういったことを国家が義務づけ、先天的な障害のある可能性がある児の中絶を義務化する、とかそういった行き過ぎたところまで行ってしまうとそれは明らかな問題だが、現状のでこの本人の意思・判断に任せる、というのもどうなのか、答えは出にくい。
以前、生命倫理についての講義で、帰結主義、義務論、自身の潔白が大切だと学んだが、この問題は「災害現場でのトリアージにおける命の順序づけ」などとは違い、1つの命を周囲のエゴで奪うか残すか、ということでしかないというのがまた難しい。どこからが命とみなすか、また十分な生育環境を整えられないまま産んでしまうことの方が悪だ、とか様々な意見や議論がありうるし、きちんとした結論が出ない難しい問題である。
それぞれの心の中に決めた答えがあるにしろ、常に考え続けなければならない問題であるし、また医療に携わるならば尚更真剣に向き合うべき問題であると思う。
・「なんのために生きるのか」
生きる理由:子供を養う、という明確な理由 様々な形での自己実現
明確にない 追う夢もない 折れかけた心 ←生きる目的がない、という人はどうしていけばいいのか。
何に対して持てばいいのか ただいきるだけ、というのはいいのか?そもそもそういうことにすら考えが及ばないことに勝るものはない。
サンクスギビング 感想
サンクスギビング
街が恐怖に蝕まれていく感謝祭。メイフラワー号が上陸した”アメリカの故郷”、感謝祭の本場プリマスで起こる惨劇。プリマス植民知事ジョン・カーヴァーのお面を被った殺人鬼が大暴れするスラッシャー映画。
流石に面白かった。イーライ・ロス監督映画はホステルシリーズとグリーン・インフェルノしか見ておらず、ノックノックやアフターショック(脚本・原案・製作)、キャビンフィーバーに関してはまだ未視聴なのでこれを機に見ていこうと思うため、この監督についてどう、という話はあまりできないのだが、少なくとも見た3作品に関して共通するものとして、「若者の未熟さ(もっと言うと愚かさ・無知さ)が原因となり大きな事象に巻き込まれていくが、持ち前の機転と若さを活かしてどうにか脱却する」というプロットが多い気がする。また、今作はグリーン・インフェルノで描かれていたスマホ描写に近しいものがあった。バカな奴が使うと幾らでも負のパワーを生み出しえてしまう一方で、きちんと使えば身を助けうるものになる描写なのだが、これはスマホだけではなく、パワーのあるもの、武器や権力や腕力もまた同様に使い手の倫理観・リテラシーによって大いに生む効果が変わってくるとも考えられる。
(スマホの持つパワーについて、グリーン・インフェルノでは皮肉たっぷりに”スマホ文明”というコンテクストの上でしかそのパワーというものは発揮しない、未開の地では全く以って役に立たないがらくたでしかない、ということが描かれており、非常にここが好きなポイントであった。)
今作はスクールカースト1軍の集団(Jock,Queen Bee,Side KickといったClique)が引き起こしたことがのちの悲劇・惨劇の原因となるのだが、彼ら彼女らの家庭の経済状況についてもまた見ていて面白かった。主人公ジェシカはモールの令嬢だし、ユリアもまた太そうな実家に住んでいた。また、いじめっ子ライアンも新型のiPhoneを何の気なしに買いなおすことができるほどの財力があるように見えた。それこそがすべてとは言えないが、やはりある程度こういった郊外という限られた空間では親の財力がものをいうことが多いのかもしれない。舞台となったマサチューセッツ州のプリマスの世帯年収格差や治安についてさらに知見を深めるとより面白く思える映画なのかもしれない。いつか行ってみたい。
パンフレット中の監督のインタビューでは、「本来感謝を伝えるべき感謝祭というものが、現在ブラックフライデーセールに代わられるようになってきている。セールに向かうために本来は団らんと感謝の場であったディナーを急いで終わらせるようになってしまった。感謝を建前としながら実際は他者と争う、この倒錯が興味深く、またアイデアの基となった。(要約)」と述べていた。劇中でも「THANKSGIVING NOT THANKSBUYING」というプラカードが掲げられており非常に印象的であった。今作もホステルやグリーンインフェルノと同様に行き過ぎた消費社会に対する警鐘というものを皮肉たっぷりに、そして刺激的に描いている。イーライ・ロス監督がただのグロだけの監督ではない、というのが今作からもビンビンに伝わった。
次作はもう決まっており、ゲームシリーズ「Borderlands」の実写化である。撮影はもう終わっているようで今年8月にアメリカでは公開となるようだ。キャストもすでに発表されており、非常に楽しみである。日本での公開も決まることを祈っている。
リバー、流れないでよ 感想
リバー、流れないでよ
京都の川沿いにある「ふじや」で起こる2分間のループコメディ。
最近ちょこちょこあるような一発ネタ系の邦画には、面白く観はしつつもモヤモヤするポイントがあった。しかしこの映画は設定の妙があり、最後まで非常に面白く、モヤモヤすることなく見ることができた。
2分間という時間的制約と場所が戻されてしまう、という空間的制約。これが非常にうまく作用した。
視聴者の感じる時間軸(シークバー通りの時間軸)と登場人物らの体感時間というのが一致している、というのがまた良い。時間は戻るが時間以外は戻らない、常に流れ続けていく。次のループに引き継がれていく。
チープな恋愛に落とし込まず、その思いの本質的な部分、すなわち「この日常(従業員にとって)/非日常(宿泊客)が続けばいいのに…」という人間だれしも持ちうるありもしない不変性を求める感情の共有に落とし込む部分が非常にグッとくる。
ノエのVORTEXに通ずるような、時間というものがあらゆるものを変えていってしまう悲しさや切なさを浮き彫りにしながらも、時間が進みまた日常が変容していくこともまたいいな、と思えるとともに時間が流れていても変わらない想いや場所はあるんだ、というメッセージ性がたまらない。
なによりもクライマックスが最高である。大の大人が並んで走る。これに勝る一生懸命描写はないと思う。(ヤキニクロード然り…)あの絵面としようとすることのバカげている感じのミスマッチ感からくる面白さと、何か一つのコト・モノ・場所に向かって一生懸命に立ち向かう姿勢、そしてこれを生み出しているこのループの設定。これらすべてがひとまとまりとなって押し寄せてくる感動、このギャップがありつつも心温まるエンディング。本当に面白い映画だった。
p.s.)近藤芳正演じる作家オバタのやることなすことになんだか移入した。こんなご都合設定あったらやりたいことをやっている彼に非常に好感が持てるね。