2023年 あまりハマらなかった映画 3つ

  1. ゴジラ -1.0」

    映画館が人であふれかえるクリスマスに1人で観に行った。映画中や終了後の他の観客の様子やネット上での意見などを見るに、自分がただこの映画に入り込めていないだけで、純粋に面白いのかもしれないが、如何せん作中の粗や気に入らない部分がノイズとなり面白いと感じられなかった。


    気になった部分について具体的に述べていこう。
    まず映画冒頭の大戸島でのゴジラ襲来シーンでの戦闘機の機銃は主人公敷島にしか撃てない、というシーンだが、戦闘機を動かすのではなく、単に機銃掃射する目的であれば別に誰だっていいはずだし、敷島のほかにいたメンツのほとんどが整備員であることから機銃の掃射の仕方くらい知っていてもおかしくない。このように主人公を主人公たらしめるために物語を歪めている部分が初っ端から気になり、以降そういった部分に敏感になってしまったように思う。

    次に、佐々木蔵之介の演技があまりにも…すぎてちょっと受け付けられなかった。佐々木蔵之介自体が嫌いなわけではないのだが、テレビドラマ的すぎて映画として完結する物語の中には濃すぎる味付けで胃が凭れてしまった。

    オリジナルへのリスペクトなのか単なる目配せなのかわからないが、核の脅威の権化としてのゴジラを描いていた。しかし、それがあまりにも表面的すぎた。中盤の本土初上陸シーンでのゴジラ熱線からのきのこ雲、そして黒い雨の描写が出た時は「これは…期待できるな…」という気持ちでいっぱいになったのだが、それ以降一切放射能汚染などについて触れられておらず、登場人物全員相当な被曝をしているはずなのだが、そういった影響というのが全く描かれていない。なんならものすごくピンピンしており、そこにまた苛立ちを覚えた。

    何より、現在にも通じるような政治批判のようなものや、戦時中の日本の在り方などに対する批判を行いたいような部分が見受けられはするものの、「政府ってのは…いっつも隠蔽ばっかじゃねぇか」みたいなセリフに留まる程度で政府がどのような実態なのかなどそういった部分、何なら政治家が一切といってもいいほど出てこない。これで批判しているつもりなのかな?という疑問がずっと頭から離れなかった。(別にそういった意図はないのかもしれない、と思うとそれはそれでがっかりだし、それならなぜ戦後という時代を選んでそういったセリフを入れたのかさっぱりわからない。)
    また、最終的なゴジラ討伐作戦として「海神作戦」なるものを立案し決行することになるのだが、この作戦自体のガバガバさには目をつむるとしても、決行時に途中で作戦がゴジラの機転により中断されるが、ちょっと胸アツ(?)な展開から中断した作戦を再開するシーンがあった。しかし、立案段階で「急激な圧力の変化」こそがこの作戦のキモであると明言しており、再開後にゆっくりと浮上させてたらそもそもの作戦の意味がないような気がして仕方がなかった。
    更に、このような民間の、しかも元軍人たちのガバガバな計画に対して、政府も暗黙の了解をし、またGHQも一切関与しない姿勢はちょっと無理があるように思えた。戦後の動乱期にこんなガバガバ計画であれだけの戦力を調達し放題であるなら、クーデター起こし放題だし、またゴジラが東京で一度大暴れした際、GHQの本部や政府の機関などダメージを受けているはずで、隠蔽云々というそんなしょうもないことで片付けられるレベルではない気がする。
    こういったことに対して、「純粋に楽しめ!!!」といった意見を言われかねないが、戦後というデリケートな時期をわざわざ選んで題材にしている時点でこういった問題に対して真摯に向き合うべきだと思うし、それをないがしろにするのはあまりにも不誠実極まりないように感じてしまう。

    細かい話をさらにすると、山田裕貴演じる水島に対して「戦争を知らねぇってのは幸せなことなんだぜ…」みたいなことを言っていた佐々木蔵之介がラストの胸アツ(?)シーンで水島が来た際に「お前やるじゃん!」みたいなことを言っていたのがすごく気になったり、海神作戦決行日に敷島が娘と金と「この子をお願いします」だけ書かれたような置手紙だけを置いていったことに対して、安藤サクラ演じる澄子が怒りもしなかったりする点(海神作戦が極秘だったことからあまり手紙には何も書けなかったことはわかるにはわかるが、それだけの内容じゃ澄子はコブ付き独り身で育てられない/身動きのとれなさの限界を感じて娘を捨てたんじゃないか、と考えるのが自然だから)がすごく気になったり…とキリがない。

    ラストのありえないような”再会”を見て正直乾いた笑いしか出なかったが、帰り道にずっと考えていたらすべてに納得がいく一つの説にたどり着いたのであった。それは「敷島、最初の大戸島で死んでいた説」である。敷島は最初の大戸島で米軍の攻撃に遭い命を落としてしまったが、今際に見た米軍の脅威というものが「ゴジラ」という幻想を生み出した。自分自身が何の役にも立てず死んでしまい、また自分のせいで仲間が死んでしまったことなどの後悔の念から成仏できずにいた敷島の霊が、霊的な世界もしくは空想の中でゴジラ-1.0の世界を経験することで無事成仏した。これでいいんじゃないか?

    勿論、CGの凄さなどいいな、と思う点はありはしたのだが、受け付けない部分が受け付けなさ過ぎて苦しくなってしまった。人間は過度のストレスに曝されると変な笑いが出てしまうのだな、と実感した。
    「敷さぁぁぁん!!敷さんは悪くないぃぃぃぃ!!!!敷さんは生きていいぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」


  2. 「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」
    ウォンカとチョコレート工場のはじまり : 作品情報 - 映画.com
    これはまず、広告の不誠実さが大きい。「チャーリーとチョコレート工場」の前日譚、というように銘打って各所で広告がなされていたが、大嘘である。
    今作は1971年に公開された「夢のチョコレート工場」の前日譚なのだ。
    チャーリーとチョコレート工場と原作は同じであり、話も大体同じではあるのだが、様々な部分が異なっている。例えば、ウンパルンパの造形であったり、ウォンカの家庭事情であったりが挙げられる。特に後者はティム・バートン版のオリジナルの要素があまりにも強く、「チャーリーとチョコレート工場」の前日譚、と銘打つと大きな齟齬が生じてしまう。本当に、良くない。
    背景としては、「夢のチョコレート工場」が日本では当時公開されず、また知名度が低いことなどが挙げられるが、にしてもちょっとなぁ…


    内容に関してもまたちょっと違和感がずっと拭えず、言語化できないもやもやがあり3日くらい頭を悩ませていた。3日目にして漸くある結論にたどり着いた。それは「チョコなの?薬物なの?のダブルスタンダード」である。
    原作「チョコレート工場の秘密」、ひいてはロアルド・ダールの小説の大半において言えることなのだが、結構ブラックなジョークが盛り込まれており、今作もそれに準じたのだろうと思われるのだが、表面だけをなぞりすぎていて話に整合性が取れていない部分があるように思えた。
    敵集団「チョコレートカルテル」は街のチョコレート市場を独占していたが、その際にチョコレートを賄賂の代わりとして用いていた。その際、チョコレートがチョコレート以上の価値を持ちすぎている、さらに言うと、薬物的に描かれている点が非常に気になった。一貫してチョコレートを薬物のメタファーとして描いているなら納得は行くのだが、ことあるごとに「これはみんなも知っているチョコレートだよ」というような感じを出してくる。チョコレート自体は人気のお菓子であり自分自身も好きではあるが、チョコレートにそれだけの価値があるのか、と考えるとそこまでの価値を見いだせない。
    原作やその映画化である「夢の~」や「チャーリーと~」では、子供はチョコレートとウォンカブランドの魅力に、大人はウォンカの工場に行ける、という希少性など熱狂する理由がそれぞれ理解できた。なのに今作はそういったものではなく、チョコレートを変にエンパワーしておりそれが非常にノイズとなった。

    また、チョコレートを薬物のメタファーとして描いているのであれば、ウォンカの行っている行為というのはただのシマ荒らしであり、カルテルから目を付けられるのは至極当然のことである。また、違法なストリートでの売買によってメイクマネーして成りあがる、いわばヒップホップ的、ストリート的であるにもかかわらず、それがあたかも大正義であるかのようにラストで大団円を迎えるのはすごく違和感を覚えてならない。

    薬物のメタファーとして描いているにしては甘すぎるし、ただのチョコレートにすぎないとするならあまりにも無理がありすぎる。あまりこういうことを考えながら観るものではないのかもしれないが、ウォンカ虐みたいな応酬を重ねラストの大団円のカタルシスを生む流れはおおむね理解しつつも、終盤までのウォンカ虐の叩きのめしっぷりの悲しさがあまりにも強く、「たかが街を仕切っている程度のチョコ屋集団」にしては、あまりにも卑劣で既得権益の保持に貪欲すぎ、異常であると言わざるを得ない。

    また、今作のエンディングで描かれたメッセージが後日譚であるチョコレート工場の秘密で描かれるウォンカ像が持ち合わせていない考えであり、前日譚として描いているストーリーの中でウォンカにこの学びを与えていいのであろうか。非常に疑問が残る。

  3. 「きっと、それは愛じゃない」
    きっと、それは愛じゃない | あらすじ・内容・スタッフ・キャスト・作品・上映情報 - 映画ナタリー
    Filmarksより

    「ドキュメンタリーを撮る」ということがもつ問題点やその意義についてどう扱っているのか、ということに対して、あらすじや予告を見た段階から非常に気になっていました。この点に関して、ドキュメンタリーを撮る最初のシーンにおいてカメラを向けられた側が演技をしてしまう、普段通りのふるまいではなくなる、という描写があり、その点はすごくいいと思いましたが、その次の瞬間にはまるでカメラが介在しないかのように振る舞えている部分にすごく違和感を覚えざるを得ませんでした。(映画の尺の都合上仕方のない部分ではあると思いますが)次に、主人公であるゾーイが自分の持っている意見とは真逆の価値観についてのドキュメンタリーを撮るわけですが、本人はその価値観を十分に尊重したつもりでいながらも私情を大いに挟み、挙句の果てには自説を強化しうる構造になっていながらもお涙頂戴のあたかも良いような終わり方になっており、非常に悪質な意見の誘導をしているように思えました。(その結果としてカズや家族、一部の観客には非常に冷ややかな目線で見られることになるのですが)。これは劇中劇としても褒められたものではない、と思いました。ドキュメンタリーを作る側としてその姿勢はいかがなものかと……

    また、このような劇中劇のもつ悪質さ、具体的に言うならば「見合い結婚は古く、もう時代にそぐわない価値観・風習である。一方で恋愛結婚というものは問題を抱えつつも無条件に素晴らしいものだ。」とする言説をこの映画全体としても唱えているように思えてしまう点がよくないと感じました。
    主人公ゾーイは、隠しきれない自分の気持ちをそれとなくずっとアピールし続けていたらいつの間にか周囲が自分の都合のいいようになっていき、その結果望む”幸せ”を手に入れます。彼女はこの映画を通して全く成長してないですよね。
    ゾーイから感じられる不快さが作品を通して納得へと変わり、昇華されカタルシスを生むようになっていないために、映画が終わるまでずっとその不快さが持続して非常に苦しく感じました。

    カズの妹ジャミラ周りの話ですが、保守的な価値観から脱却し自身の主義を通すために苦しみながらも犠牲を払ったジャミラを描くこと自体は、保守的な価値観にとらわれているカズやマイム―ナとの対比になり、非常に良いと思ったのですが、マイム―ナの顛末といい、カズの最後の選択といい、この対比を大いに崩すような結果になっている上に、なぜかジャミラよりも家族に頑張って従おうとしたカズの方が”オトナ”であるかのような描き方をしており、非常に不快でした。ジャミラの苦しみや決断はそれ相応の覚悟があってこそな一方で、風習に流され(流されること自体は悪ではないですが)結婚までしたのにも関わらず、それを不意にしてまで自分の欲求に従うカズやマイム―ナの覚悟のなさ、人間としての未熟さがより際立ちました。

    恋愛・結婚、というものについても、「しなきゃいけないこと?しなくても幸せに生きていける」ということにも触れるのかと思いきや、結婚や恋愛といったものをしなければいけないこと、いずれは誰しもするべきものであるかのような印象を受けてしまい、それは言いすぎなんじゃないか、と思わざるを得ませんでした。何かしらの「恋愛というもの、結婚というものはしなくても…」ということへの回答をしてほしかったです。

    最後に、「ムスリムの旧い価値観を啓蒙してあげるぞ」みたいなフェアではない目線で描きながらも、家族愛のようなもので全体を包みいかにも良いテーマであるかのように見せている感じが非常に気持ち悪く感じてしまいました。
    カズとマイム―ナが離婚してそれぞれの思い人とくっつくハッピーエンドにせずに、家族を大事にする保守的な考えにしっかりとのっかったうえで”演技”し続けながら「好意に落ち、愛を育む」、そういった形の結婚もまた肯定しても良かったのではないでしょうか。
    現代“風”でありながらもめちゃくちゃ古典的な考えで、また“人種や宗教の垣根を超えた平等性について語ってる”風でありながらも差別的な目線でしかない、あらゆることを表層的になぞるだけで、何も深く掘り下げない、この映画をどうしても好きになれません。